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発がん過程の生物学的個人差


 疫学データの「確率的な解釈」と「選択的な解釈」について、これら二つの考え方の科学的な妥当性を見てみましょう (「疫学データの生物学的な意味」参照)。
 確率的な考え方が成り立つ場合には、すべての人に同じだけの可能性があることになり、特定の人がなりやすいという選択的な考え方は否定されます。ここでは、確率的な考え方が成り立つかどうかを検証してみましょう。

 被ばくによるがんのなりやすさはどんな人も同じである、という確率的な考え方の本質は、すべての個体(個人)が同等で区別できないことです。もちろん、被ばくの影響(発がん影響)が同等であるという意味で、ある線量を被ばくするとすべての人(個人)に同じだけのがんの可能性が生じるということです。全体で考えると、確率から計算される数のがんが生じます。
 ある線量を被ばくしたすべての人に、同じだけのがんの可能性が生じるというのは、生物学的にはどのようなことを意味するのでしょうか。

 個人の体の中で起こる、被ばくしたことからがんに至るまでの出来事がみな同じだということです。
 途中のプロセスは個人で違うが、がんになるという結果の可能性の大きさは(たまたま)みんな同じ、というわけにはいかないので、この場合には、それぞれのステップでプロセスがみな同じであると考えるべきでしょう。すべての人で、被ばくからがんまでのすべてのステップで同じことが同じ確率で起こる、ということになります。
 これが保証されないと、確率的な考え方は成り立ちません。

発がん過程の生物学的な個人差
 被ばくからがんまでのステップで、被ばく(線量)とその影響(生成量や結果)がすべての人で同じになるか、つまり、
「がんの発生は、線量に比例するか?」
「同じ線量を被ばくすると、すべての人で、同じ結果になるか?」
が成り立つのかを検証してみましょう。

ステップ1)被ばくによる活性酸素HOの発生
 X線などの放射線被ばくによって、生体では水分子が電離分解してヒドロキシルラジカル(HO・)が発生します。これが被ばくした体の中で起こる最初のできごとです。
 これは物理化学的プロセスであり、HOの発生量は放射線エネルギーだけで決まります(*)。同じ線量を被ばくすれば、すべての人の体の中で同じ量の活性酸素HOが発生します。人でもマウスでも同じです。
 したがって、このステップでは、すべての人で、線量と出来事の間には直線的な相関がある、と言えます。
* X線・γ線による水の分解の化学的収率(G値)2.8(100eVのエネルギーを吸収したときに発生する生成物分子の数)

ステップ2)抗酸化物質によるHOの捕捉と消去
 もともと細胞内にはミトコンドリアから発生する活性酸素由来のHOが常に発生しています。被ばくすると同じHOが発生し、ミトコンドリアからのHOと被ばくによるHOとが混在することになります。問題は、被ばくによるHOがどのような結果に結びつくかということなので、このHOに注目しましょう。

 細胞内(細胞質)にはグルタチオンという抗酸化物質が非常に高濃度(5〜10mM)に存在し、細胞内の抗酸化的防御の中心的役割りを担っています。グルタチオンはHOに対する非常に良い捕捉剤です。
 その主な理由は、細胞内の濃度が高くグルタチオン分子が細胞内のいたるところにが存在するため、HOが発生すると即座に反応して無害化する(水分子にする)ことができるということでしょう。

 被ばくによって発生したHOはグルタチオンによって捕捉されます。しかし、発生したHOがすべて捕捉されるという訳にはいきません。(もしそうなら、ミトコンドリアからのHOもすべて消去されることになり、最体内の活性酸素の害などは考えられなくなります)いくらかは捕捉されずに細胞内に残ります。この残ったHOこそが、被ばくによって細胞や遺伝子を実際に傷つけるHOなのです。
 したがって、どれだけ残るかが重要になります。

 ビタミンCもグルタチオンと同様に、HOと反応して消去する抗酸化物質として知られています。
 このステップで考えるべきことは、グルタチオンやビタミンCによって消去された残りのHO量が線量とどのような相関があるか、です。

*一説によれば、ミトコンドリアからのHOの発生量は、放射線被ばく(たとえば100mGy)で発生するHOより何桁も多いといわれます。しかし、もしそうなら、数百mGyの被ばくによって何らかの影響(発がんや確定的影響)が現実にあるという事実が説明できません。この説の問題点は、ミトコンドリアから発生するHO量の計測に信頼性がなく、何桁も過剰に見積もっている可能性があることです。したがって、この問題は現時点では不明であるとすべきでしょう。

 被ばくによって発生するHOの量は、すべての人で同じです。それを捕捉・消去するグルタチオンやビタミンCの量が多ければそれだけ効果的に捕まえて消去することができます。

 たとえば、簡単な例で、被ばくによって100個のHOができたとします。グルタチオンがそのうちの20個を消去するなら(消去率20%)、残りの80個が実際に細胞や遺伝子に害を及ぼすものになります。グルタチオンが2倍量あると、40個消去し、残りは60個、3倍量では、残り40個。つまりグルタチオンが3倍あると、遺伝子に傷害を与えるHOは半分になるということです。つまり、同じ線量を被ばくしても、抗酸化物質の量によっては、影響(この段階の影響とは、HOの発生)はこの段階ですでに半分になることもあるということです。
 消去率が小さくなれば、それだけ抗酸化物質の量には左右されなくなります。そして実際に遺伝子に傷害を与えるHO量は、線量に比例するかどうかは、全くわかりません。

*実験では、線量に比例してDNAの傷害や突然変異が検出されていますが、 1) 多くは試験管内の実験で、実際の人間の細胞ではないこと 2) データはすべて数百mGy以上の線量の場合であること などの理由から、ここで問題にしている数十mGy以下の低線量でかつ生きた人間の細胞でどのようになるかは実験的には分かっていません。

 グルタチオンやビタミンCなどの抗酸化物質の量は、ひとりひとりどれくらい違っているのでしょうか。2倍や3倍というような違いがあるものでしょうか?
 図 は、健常人のリンパ球内のグルタチオンとビタミンCの量を測定したものです。グルタチオンは最大で数倍以上、ビタミンCでは10倍もの違いがあります。これらは主に食物からのシステインやビタミンCの摂取量の違いです。平均的な人々の間でも2〜3倍の違いはあるようです。
 さらにビタミンCが多い人はグルタチオンも多く、それぞれの摂取量だけでなく、ビタミンCがグルタチオンを補うようにして細胞内の抗酸化的防御機能の大きな部分を担っていることも報告されています。

 これらの抗酸化物質の量が違うと、消去されるヒドロキシルラジカルの量は違ってきます。日常的なミトコンドリアからの活性酸素による遺伝子の傷の量は、グルタチオンとビタミンCの量によって左右されることが報告されており、この防御が現実に大きく作用していることは明らかです。
 私たちの体でも同様の個人差はあるでしょう。つまり、私たちが同じ線量を被ばくしても、人によっては、実際に遺伝子を攻撃するHOは半分や1/3になるのです。また人によっては2倍3倍なのです。これではもはや、“同じ線量を被ばくしたら”ということ自体が、意味がなくなってきます。

 ステップ1では、発生するHO量は線量に比例しました。
 しかし、このステップ2では、実際に遺伝子を傷つける可能性のあるHO量は、線量に比例するかどうか分からず、個人差は小さくないと考えられます。
 つまり、同じ線量を被ばくしても、遺伝子への実際の攻撃の量は人それぞれなのです。

ステップ3−1)DNA修復の個人差
 このように捕捉されずに残ったHOが遺伝子を傷つけることになります。
 できた遺伝子の傷のほとんどは、DNA修復酵素によって修理されますが、たまに修理にミスが起こり、突然変異ができてしまうことがあります。これは誰にでも起こることで仕方がないのですが、ミスの起こりやすさには遺伝的な違いがあるようです。
 重要なDNA修復酵素XRCC1やXRCC3、XPDなどの遺伝子には遺伝子多型(遺伝子の塩基配列の部分的な微妙な違い)が見られ、修理能力に個人的な違いがあるらしいことが次第に明らかになってきました。
 図 を見ると、数倍程度の差は普通に見られるようです。すべての修復酵素についてのこのようなデータが揃っているわけではありませんが、似たような個人差があると考えるのが妥当でしょう。

 したがって、被ばくによって遺伝子の傷が同じ量できたとしても、修復能力が人それぞれに違っているために、突然変異のできる可能性が異なってくるでしょう。
 ところが、ここまでのステップで明らかなように、同じ線量を被ばくしても、ひとりひとりの遺伝子の傷の量は違っています。そのような違いがすでにある状況の上に、さらに修復能力が異なっているわけですから、遺伝子の傷害の修復には大きな違いがあることは間違いありません。

ステップ3−2)p53の働きの個人差
 p53は、おそらく最も重要ながん抑制たんぱくです。
 この酵素の働きは、遺伝子の傷害が多くなると、緊急にDNA修復酵素を増やして修復を促進すること、あまりに傷害が多すぎる場合には細胞そのものを死なせることです。
 また、細胞分裂の途中で傷害が起こった場合には細胞分裂を一時停止するという重要な作用もあります。このような働きによって、突然変異を持った危険な細胞を生み出さないようにしています。
 p53が細胞にがんを発生させない役割りを担っていることは様々な実験結果から明らかで、p53の働き方によってがんのなりやすさは大きく変わります。

 このp53には遺伝子多型(遺伝子の塩基配列の部分的な微妙な違い)が見られ、いろいろながんとの関連が研究されています。他の防御遺伝子の個人差と組み合わされた場合には、がんが起こりやすくなることがあると報告されています。研究が進めば、p53の働き方の個人差がさらに明らかになってゆくでしょう。

 ステップ3−1)の様々なDNA修復酵素の働き、そしてp53の働き、これら全体で“遺伝子の傷害から細胞を守る”防御機能が構成されています。
 ここで示したように、たとえ同じ線量を被ばくしても、その結果には人それぞれ大きな違いがあります。

ステップ4)がん免疫による防御の個人差
 免疫によるがんの防御には、キラーT細胞やNKT細胞、そしてNK細胞などの免疫細胞が大きな役割を果たしています。
 細胞の突然変異が蓄積するにつれて細胞は次第に変化してゆき、いろいろな段階の腫瘍細胞、そして最終的にがん細胞となります。免疫細胞は、いろいろな段階の腫瘍細胞やがん細胞を選択的に認識して接着し、腫瘍細胞やがん細胞に細胞死を起こさせます。これががん免疫です。

 がん免疫が働かない場合には、がんの発生は飛躍的に多くなることが明らかで(図 )、がん免疫が私たちを救っている部分は非常に大きいと言えます。
 その中での最も重要なのはNK細胞です。
 NK細胞の活性は、気持ちや運動など日常生活の活動の影響を受けることが良く知られています。運動や笑いというような行動がNK細胞の活性に大きく影響するとされており、笑いによるがん治療なども試みられています。
 このようにいろいろな条件によって左右されるNK細胞活性には、大きな個人差があることが明らかになっています。

 正常な人々の間でも、活性の高い人と低い人では数倍以上の差があります(図3- )。それがそのままがんの発生の違いに結びつくのではありませんが、大まかには関連していて、NK細胞の働きの悪い人はがんになる可能性が高く(図3- )、現実にがん免疫が機能していることが示されました。
 また、NK細胞の活性の違いには、心理状況や活動の内容だけでなく、遺伝子の微妙な個人差が影響していることも最近報告されました。さらに実験では、グルタチオンの量によって大きく左右されることも示されました。つまり、がんを実際に抑制するNK細胞活性には非常に大きな個人差があるということが分かります。

線量と結果の相関
 線量と結果が比例関係(直線関係)にあり、すべての人で同じ結果になるのは、厳密にはステップ1だけです。
 その後のステップでは、どれくらいの割合で修復できるか、消去できるかなどによって、比例関係にあるかどうか全く変わってきますし、比例関係になるかどうかも明確ではありません。
 しかし、線量とそれぞれのステップの結果に比例関係があるかどうかより重要なのは、線量とがんが増加するかどうかは、ひとりひとり全く異なるということです。
 同じ線量を被ばくしても、その線量でがんになるかどうかは、ひとりひとり異なっていることは間違いありません。これを個人のしきい値を呼ぶことはできるでしょう。

 ある人は、50mGyの被ばくで最終的にがんになる可能性が増すかもしれませんが、また別の人は、500mGyの被ばくでも増加しないでしょう。それぞれの人のしきい値が違っているのです。
 この個人のしきい値の具体的な意味は、その人の抗酸化的防御機能やDNA修復機能などによって、ある線量までは突然変異にはなりにくいということや、日常生活による突然変異の蓄積がそれほど多くないということ、がん免疫によってある程度の腫瘍細胞の発生までは消去可能であることなどによって、ある線量まではがんという結果には結び付かないということです。
 どんな人でも、ある線量以下ではがんになる確率がゼロであると断言することは論理的に不可能ですが、ある線量以上で確率が現実的な意味で増加するというような線量があると考えた場合、その線量は人それぞれだということは明らかです。ここでしきい値というのは、そのような線量のことだと理解してください。

 そして、重要なのは、しきい値があるかどうかではなく、一人一人しきい値が違うということです。
 つまり、人によっては、20mGyの被ばくでも、状況によって突然変異が1個増えてしまい、そのために最終的な数が15個になってしまうということはあり得るでしょう。
 また、被ばく時の状況が悪く突然変異が1個増えてしまうものの、人生の突然変異の蓄積のペースが遅いため(1個増えたものの)最終的には15個にはならず、がんにはならないという人もいるでしょう。
 500mGyの被ばくでも、DNA修復能力が高く完璧に修復してしまう人もいますし、被ばくで突然変異が1個増えて、がんへの道が加速されるものの、がん免疫の働きが強く、がんになるまでにその細胞を消去してしまう人もいるでしょう。

 たとえば一生の間ヘビースモーカーでがんにならずに幸せに人生を終えることのできる人は少なくありません。
 そのような人々の肺の細胞、食道や胃その他の消化器の細胞、腎臓の細胞など多くの細胞には、通常よりはるかに大量の傷害が毎日発生しています。
 普通なら当然修復のミスも多くなり、突然変異も多くなるでしょうが、彼らの場合そうはならず、効率良く修復されているのかもしれませんし、がん免疫で突然変異がある程度蓄積した腫瘍細胞を次々消去しているのかもしれません。

“確率的ながんリスク”と“生物学的ながんリスク”の違い
  ある線量の被ばくをした場合に、それがもとでがんになる人がいるということは事実です。
 1000人の集団が100mGy被ばくした場合、10人ががんになったということは、
“確率的な”考え方では、「被ばくによってすべての人に何か(突然変異やがん)が起こるわけでないが、被ばくというのはそのようなことを起こす作用があるので、ある確率で実際に起こることになる、その確率が10/1000だ」ということです。
 どんなステップのことか、どんなメカニズムがあるのか、確率でいいのかなど考えずに、何人中何人ががんになったかという、単なる数字上の計算で10人が決まります。
 したがって、この場合の10人というのは、1000人の中の誰でもいいのです。

 一方、生物学的に考えるなら、集団は、このように違った状況、条件、しきい値をもつ人々の集まりです。
 集団がある線量を被ばくした場合には、それぞれの個人にとって影響は大きく違いますので、ひとりひとりの結果も大きく違ってきます。したがって、1000人の集団が100mGy被ばくした場合、10人ががんになったというのは、この場合、「1000人のうちの誰でもいい10人ではなく、1000人の中でしきい値が低い人々のうちの10人」なのです。
 100mGyの被ばくでがんになる可能性が高くなるような状況条件を持つ一部の人々がいるということです。
 ある線量を被ばくした場合の集団のがんリスクとは、集団の中で何人ががんになるかという確率ではなく、その線量でがんになるような(しきい値をもった)人がその集団の中に“何人居たか”ということなのです。

 疫学データは単なる事実の記述です。
 その事実をどのような観点から見て、どんな真実を引き出すかは、私たちが何を知りたいのかによります。
 私たちの属する集団が被ばくしたときに、その中の何人が、その被ばくのせいで将来がんになる可能性があるか、を知りたいときには確率的な解釈で十分でしょう。
 しかし、私たちの”誰にどのような可能性があるのか”現実的に私たち個人の問題として考える場合には、個人差のない確率的な考え方では、役に立ちません。生物学的な個人差が選択をおこない、影響の出る個人を決定するのです。
⇒(「疫学データはなぜ直線的か?」参照)

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